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佐藤公太郎│さとうこうたろう
明治40年~平成20年。
「みちのく豆本の会」主宰。
酒田中町に生まれ。
酒田市立中央公民館館長。
玉川遠州流酒田支部長。
昭和42年、高山樗牛賞、
昭和50年、斎藤茂吉文化賞、
平成9年、阿部次郎文化賞を受賞。
主な著書に『庄内むかしばなし
河内の兄マ』『酔狂談義』
『虚案茶話』などがある。

佐藤公太郎氏

佐藤公太郎氏

小松写真印刷と「みちのく豆本」 佐藤公太郎 みちのく豆本の会主宰

 今年から90年遡ると20世紀の幕開け1900年になる。小松活版所は文明開化で象徴される明治の末年に開業した。大正デモクラシーと云われる時代を通って昭和へ、印刷と云う文化的職業に終始して地方の文運に貢献した。その経緯については別に書くことになっているので、印刷に係わる業績のうち「みちのく豆本」について述べることにする。

  • 川柳集 カステラの屑

    川柳集 カステラの屑
    鈴木美男人

  • 荘内の鎧

    荘内の鎧
    佐藤東一

  • 贋作 かられる物語

    贋作 かられる物語
    大内九鬼

  • 遠い日

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    加藤千恵

  • 陣中日記

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    須田金太郎

  • 西鶴と酒田

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    藤井康夫

  • 随筆集 鮎子さん

    随筆集 鮎子さん
    大平禎助

  • 続 遠い日

    続 遠い日
    加藤千恵

 高踏的文芸同人誌「骨の木」の伝統をひく「みちのく豆本」は昭和32年8月に創刊した。佐藤十弥、佐藤三郎と「骨の木」の旧同人が相寄り、期せずして三佐藤が主唱者となって始めたのは単に偶然と云うだけでなく何か因縁と云ったものが感じられる。その豆本が延々30年以上も続いたのは、装幀を引受けて殆んど全冊を手がけ、形は小さいが堂々単行本に匹敵する出来栄えを示した十弥さんに負うところが絶大である。十弥さん無くして豆本は無かったと云っていい。55年5月十弥さんの急逝でその立役者を失った豆本が気息庵々今日まで歩み続けて来たのは、十弥さんの余沢と云うものである。その「みちのく豆本」を語ることは、ひいて小松活版所の印刷技術の消長を語ることになると思われるので、豆本の一冊一冊についての思い出を併せて回顧したい。
 第1冊「河村瑞賢考」で発足したが活版印刷からオフセットに移る頃で、活字で組んで刷ったものを写真で縮小して豆本の大きさに合わせ、それをオフセットにすると云うややこしい手順を踏んだ。第6冊「むかしむかしあったけど」は活字に長体をかけて長めにしたし「ソ連の旅」では平体にした。平体だと文字が大きめに見える。それをレンズで調節したので随分苦労したと現場の担当者であった高橋秀雄さんは語って呉れた。

透かし入りの越前鳥の子手漉き和紙を
使用した佐藤十弥句集「●鼎嶺」

 「元祖豆本」とか「風流豆本」を参考にしたが印刷する方も始めての仕事だし、活字の大きさも第1冊が7.5ポ、第2冊が8ポで第3冊「かられらる物語」は元版の本を縮写したせいもあるが7ポと云う細字になっている。
 極小豆本は拡大鏡でなければ読めぬ位小さい活字だがお互老眼鏡が必要な年齢になってあまり小さい文字では読み辛いと云うことから現行の13級(9ポ)の活字に落着いた。
 表紙は2色刷を立て前にして十弥さんが苦心したが「庄内の昆虫」「庄内石油譚」「庄内地方の生物」等は3色使っている。第5冊「酒田来遊文人考」が3色刷りなのは明治篇を刷り落したので、追い刷りすることになり、それなら朱色でと云う予期せぬ3色刷りが出来た訳。そしてこの表紙、明治篇の朱字が入ったことでグンと見事になった。
 本文印刷が写植に変ったのは34年からで、写植と云うのはジカにオフセットで印刷することを謂う。現在では電算写植となって技術の進歩に驚かされる。

佐藤十弥詩集「つぶらなるもの」

佐藤十弥詩集「つぶらなるもの」
に刻まれた言葉

 「夢二と酒田」「出羽路の夢二」の表紙は多色刷りと云うのだが、「鳥海山の花」「露船漂着」はカラー印刷にした。印刷費がかなり違うがいいものを作ろうと云う私たちの主張で採算を度外視した。
 十弥さんの装幀は「走馬燈」までで85冊、「飽海の板碑」から同人の合議で装幀をやることにした。「蒼茫の海」はまあまあの出来だったが、会員からの指摘もあったように十弥調が失われたのは惜しい限りだった。一番気にしているのが「大学老詩生」で、これは亀山巌大人を煩わすべきだったと今にして後悔している。「酒田凧」「窓」は及第点がつけられると思っているし「庄内のキリシタン」「川柳集」「歩道橋」は著者の意向に添ったもので装画が息女の絵であり妻女の絵を使ったりした。そのどちらも成功している。「歌集おと」はアンカットにした。大正末年から昭和の初めにかけてフランス装と称してこのアンカットが詩集、歌集だけでなく小説にまで及んで流行した。新刊の本をペーパーナイフで頁を切り乍ら読む愉しさは文学青年だった当時の私の胸を躍らせた。豆本を作り始めてから一遍このアンカット本を作りたいと思い続けて来たが80冊目でやっと実現を見た。帙こしらえでそれに菓子楊子を添えてペーパーナイフに擬したつもりだったのに、羊羹を食べ乍ら読むようにとの心遣いが有難かったと見当違いの賛辞を貰っては苦笑するより無かった。
 造本も装幀のうちで、紐の中とぢ、背角並製本、厚表紙上製本と色々に変えて試みた。和本綴それに夢二画帖「象潟行」は折本にした。
 中とぢの紐も川柳集「零才の微笑」は三味線の糸を使ったし「庄内釣話」では釣糸を用いた。製本所も一応書きとめて置くべきであろう。最初時田製本を煩わしていたのが鶴岡の杉山製本に変り、名人肌のご主人と根くらべをやったりした揚句、53冊「生命の認識」から現在の雅製本に落着いた。製本も現在殆んど機械でやるようになったが豆本は昔乍らの手仕事なので、造本には苦労する。
 小松印刷は活版所の時代から地方文芸誌には一貫して協力して呉れた。自費出版で出した単行本についても同様で、豆本の会になってからでも十弥さんの「●鼎嶺」「円らなるもの」「髪譜」と特種な本を手がけた。「●鼎嶺」は耳つき鳥の子の特漉紙の無綴本、杉板を表紙にした。「円らなるもの」は本邦唯一と自負した円形本、綴じ方に些か難点があったけれど、これは自慢していい刊行本だ。山岸龍太郎さんの「夢二みちのく」も十弥さん会心の装本、この外20冊になんなんとする単行本も小松印刷の良心的な印刷技術に支えられて上梓された。大正時代からのつき合いを思い返すと小松印刷は大きくなり過ぎた。

季刊「柊」
小松写真印刷創業90周年
記念特集号(平成元年5月刊)より

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